ルンバの歴史
キューバからイギリスにルンバが伝えられたのは一九三〇年代後半。
当時キューバで人気のラテンバンド、ドン・アスピアス楽団がロンドンを訪れ、各地で演奏したことによってでした。
祖国のキューバではツンバとはいわず、ソンと呼ばれていました。
ソンはキューバ島東部のオリエンテ州に二十世紀初頭に生まれ、一九一六、一七年に首都ハバナで大流行しました。
アスピアスの「南京豆売り」はソンの名のもとには欧米でヒットしませんでした。
そこで、よりキューバらしい語感のルンバで売り出したところ、アメリカで大ヒットしました。これがきっかけでヨーロッパ諸国にもソンはルンバとして紹介されました。
ところが、イギリスではあまりもてはやされなかったのです。
ルンバがイギリスに浸透していったのは大戦後の四〇年代後半でした。
四〇年代のルンバは、男女が向かいあって両腕を組んだままで踊るスクウェア・ルンバが主流で、とくにフランスやアメリカで広く親しまれていました。それが四〇年代末から五〇年代のイギリスで、より男女が自由に表現できるスタイルに改良されていきました。
そして五〇年代後半には、現在のラテン五種目のなかで、最初にルンバが取り入れられたのです。
以後六〇年代初頭にチャチャチャ、サンバ、パソドブレ、その後数年送れてジャイブが加わり、現在の競技の形は整いました。
長くキューバに受け継がれる本来のルンバの起源は一六世紀にまでさかのぼります。
一九四二年にコロンブスがアメリカ大陸に到達して以降、開拓民はもっぱら先住民を支配することに力を注ぎました。
先住民は山岳の奥地でひっそりと暮らすようになり、一方、白人は開拓を推し進めるために、黒人奴隷をアフリカから大量につれてくるようになったのです。
この奴隷制は中南米のあらゆる地域に導入され、キューバにも多くの黒人が渡り、白人との混血が進みました。
白人と黒人の間に生まれたムラートたちはヨーロッパとアフリカの文化を融合させて、キューバ独自の文化を生み出してゆきました。
ルンバもまた、ムラートが作ったダンスであり音楽であり、文化でした。
頭の上に重い荷物を乗せたように頭の位置は常に一定で、ヒップを左右に動かし、足かせをはめたときのように足をひきずって歩く。こうしたルンバの基本動作は、奴隷制時代のキューバの黒人たちをモチーフにしたものに他ならないのです。