ウィンナー・ワルツの歴史
現在、ダンスの競技会にはワルツとウィンナー・ワルツが併存しています。
ウィンナー・ワルツは、ヨーロッパの地方に生まれた民族舞踊が宮廷舞踊として取り入れられて社交ダンスに発展したもので、そのはじまりは一九七〇年ごろと言われています。
また、ウィンナー・ワルツという名は使われていませんが、それ以前にもウィンナー・ワルツを思わせるカップルダンスが一七五〇年代から宮廷で踊られ始めていたようです。
それはアルプス地方に古くから伝わる民族舞踊「レントラー」の一種で、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンといった優れた音楽家たちも舞曲を多く残しています。
一八一四から一五年にかけてのウィーン会議で、ヨーロッパ各国の国王や皇帝らが一同に会し、会議の合間には舞踏晩餐会が催されたのです。
その主役となったのがウィンナー・ワルツでした。
会議出席者のウィンナー・ワルツへの心酔は相当なもので、肝心の会議はまったくおろそかという逸話が残っているほどです。
会議終了後、故国へ戻った為政者たちはウィンナー・ワルツを自国の宮廷にもたらしました。こうして、ウィンナー・ワルツはヨーロッパ諸国において、まず宮廷内の舞踏会で広まってゆきました。その後次第に市民社会にも浸透してゆきますが、その過程におけるヨハン・シュトラウス父子の活躍は絶大でした。
シュトラウス父子の功績もあり、ウィンナー・ワルツは二十世紀の初頭まで舞踏会の主役として君臨し続けたのです。
このウィンナー・ワルツの牙城が崩されたのは一九一〇年から一一年にかけて、アメリカから渡ってきたもうひとつのワルツ、ボストン・ワルツでした。
難しい技術を必要としないボストン・ワルツの登場により、それまでのダンスはオールドタイム・ダンスと総称されて、一般市民が集うダンス場からあっという間に姿を消しました。
それが五十年の歳月を経て、欧米および日本を中心にダンス競技が花盛りとなった一九六〇年代に、ウィンナー・ワルツはふたたび市民のもとに舞い戻ってきました。