サンバの歴史

サンバは日本人にとって、日常生活でもよく出くわす、なじみ深いものです。

ブラジルの国民は、ほとんどがカトリック教徒ですから、「神の下に平等」の信念は堅く、「法の下の平等」も保証されています。しかし宗教も法も、経済的に不平等な現実を変えてはくれない。ただカーニバルのときだけ、すべてのブラジル人が平等を実感できるのです。

支配するものとされる者、白人と黒人、富める者と貧しい者の区別なく、全国民が思い思いの衣装に身をつつみ、夜を徹してサンバを歌い、踊り狂う。

つまり、実社会においてブラジル人は「カーニバルの下に平等」であり、「サンバの下に平等」なのです。

ブラジルの労働者はたちは、たかだか三、四日のカーニバルのために一年を生きるのだといいます。

彼らは一年間働き続け、生活費を切り詰めてようやく蓄えたお金を、カーニバルの衣装や山車のために、惜しげもなくすべて使い果たすのです。

そして、これ以上ない豪華絢爛な衣装で、それぞれが貴族、あるいは大富豪の気分にひたりながら、街の目抜き通りを歌い踊り、闊歩する。そうすることで、日ごろの生活の厳しさや権力への不平不満をひと思いに晴らすことができるのでしょう。

ブラジルのカーニバルの歴史は、古いようで新しいものです。

もともとは、ブラジルを植民地支配したポルトガル人による謝肉祭にはじまります。が、当時は、その担い手はもおおあら支配階級の白人でした。

それが民衆に広まったのは、奴隷制が廃止され、共和制になった一九世紀末のことでした。こうしてカーニバルに黒人が参加することになって、現在サンバと呼ばれるような音楽とダンスが生み出されていったのです。
カーニバルに目覚めた庶民たちは、集団で踊るチームを次々に結成してゆき、ダンスやコスチュームを競うようになり、一九三四年には正式にコンクール化されました。

これに伴って、サンバは民衆にとってより日常的なものとなったのです。

同じエスコーラに属する者たちは毎日のように寄り合い、練習するようになりました。

このエスコーラは現在のブラジル社会において、地域共同体のような役割を果たしています。

こうしてカーニバルは急速に壮麗盛大な方向へと進み、現在のような世界最大の祭典へと発展していったのです。
一方で、上流階級の邸宅では仮面舞踏会なるものが盛んに催されました。

そこでは同じサンバのリズムで踊るマシシというカップルダンスがもてはやされ、そのマシシと民衆の踊るサンバが融合して、いまの社交ダンスのサンバができました。

サンバが欧米や日本で本格的に広まったのは、いわゆるラテンブームの一九五〇年代半ばのことで、一九六〇年代の初めには競技ダンスにも取り入れられました。

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