スクエア・ルンバの歴史
社交ダンスに二つのルンバがあることはたいへん興味深いことです。
キューバ・ルンバとスクエア・ルンバです。一見して別種のダンスですが、ルンバといえばもとはカリブ海に浮かぶ楽園キューバに生まれた民族舞踊。ルンバの名を持つ以上、どちらもキューバをルーツにしているのに違いありません。ただ、発展の過程が違ったのです。
ルンバがイギリスに伝わったのは、一九三〇年代初頭のこと。
すでに社交ダンスが競技スタイルのスポーツとして親しまれていた時期でした。
一九二〇年にブラックブール・ダンスフェスティバルの第一回が開かれ、ワルツやフォックストロットをいかに美しく優雅に踊るかを競い合っていました。
イギリスでは一九世紀半ばから二十世紀初頭にかけて、それまで娯楽として楽しんでいたものにルールを作ってスポーツ化することが流行しました。
ルンバもスポーツ好きのイギリス人の手によって競技むけに作り変えられていったのです。
一方、当時文化の中心地であったパリは、ダンスのスポーツ化にはほとんど無関心でした。
しかし、芸術家たちが集う街中のカフェやサロン。そこでは必ずダンスが踊られました。
スペインからのパソドブレ、南米アルゼンチンからのタンゴ、アメリカからのフォックストロットが、すでにパリを熱病に冒していました。
そこに、新たにルンバが伝わったのです。
パリの新進芸術家たちは先を競ってルンバを踊ったのです。
それは男女が抱き合うようにして組み、前後左右にスクエアを描くようにステップする、ごく単純なものでした。
こうしてルンバは、イギリスとフランスではまったく異なる発展をしていったのですが、当時の欧州各地においてイギリスのようなダンス競技会は珍しく、ルンバといって踊られたのは、ほとんどがフレンチスタイルのものでした。ルンバは日本にも、欧米にさほど遅れることなく伝わっています。
おそらく、北・南米のダンス事情を視察してまわり、一九三二年に帰国した加藤兵次郎が持ち帰ったのが最初です。
彼は小林一茶の設立した本格的ダンスホール、宝塚快感の初代支配人になるなど、戦前の日本においてダンスの普及にもっとも尽力した人物でした。
当時は対象デモクラシーの享楽ムードが引き続き広がっていた時期で、東京を始めとする都市では、カフェやダンスがおおいに盛り上がっていました。新種のダンス、ルンバが伝わって、ダンスホールはますます活気を帯びたことでしょう。
イギリスで競技むけに改良されたルンバが踊られるようになったのは、ダンス競技会が本格化した五〇年代後半のことです。
このころに出版されたダンスのレッスン書は、フレンチスタイルを解説するものとイングリッシュスタイルを解説するものに二分されます。論争の末、競技会にはイングリッシュスタイルが採用されるようになり、キューバン・ルンバ、あるいは単純にルンバと呼ばれるようになりました。
それ以後、フレンチスタイルの呼び名として、「スクエア・ルンバ」が徐々に定着しました。